ゴールディーは人形づくりを生業としている。自分の両親の後を継ぐ形で人形を作っているが、彼女は両親とは違ったやり方で、より誠実なやり方で人形を作っている。彼女は常に人形に話しかけながら仕事をしていて、彼女にとって人形作りは単なる仕事以上のものだ。そして彼女の人形は、ある程度の熱心なファンを獲得していて、両親の時代より多くの人形を売っている。つまり彼女はそれなりの成功を手にしている。そのことに彼女は少なからず自負を持っている。


彼女は違う面も持っている。パン屋にやってきた小さな女の子が彼女の人形を手にしている。パン屋の店主が作者はゴールディーであると教えようとするが、それを遮って、自分が作者であることを明かさない。彼女は「そうしないほうがいいような」気がするのだ。ここには、彼女の優しさというより厳しい倫理観が見て取れる。彼女は作者として自分が名乗り出ることで、少女と人形との間に何らかの亀裂が入ることを恐れていて、それをよしとしないのだ。しかし、そこには少しだけ、自分メガネの正義感も混じっている。


私たちは、ゴ―ルディーの中に作者ゴフスタイン自身の投影を見てしまう。


ゴールディーは、大工のオームスに密かに好意を感じている。2人とも木を扱うという共通点があるので、彼女はどこか通じ合うものを感じているのだ。ある時、ゴールディーは人形の納入先であるミスター・ソロモンの店で、中国のランプに出会い強く魅せられる。高価なものであったが、どうしても欲しくて購入する。彼女は大工のオームスにそれを見せるが、彼はその価値を理解しない。彼にとってそれは馬鹿げた買い物でしかないのだ。ゴールディーとオームスはあまりに違っていたのだ。当たり前だが、オームスは彼女よりもはるかに現実的な世界に生きているのだ。このことに彼女は大きく傷つく。あんなに美しいと思っていたランプも、もうばかげたことのように思えてくる。


人は他人と自分を同一視したり、自分の想いの受け皿として他人を理想化すると、必ず失敗する。しかし恋愛というのは、本来そういうものだ。どれだけ自分の幻想に相手を重ね合わせることができるかが、恋愛の決め手となるのだ。多くの人は、それに失敗し、慌ててそれを修正する。やがて、それに慣れることで彼・彼女は普通の大人に変わっていく。しかし、そこに大きく挫折し、修正もできなかった人は、大人になれずに、後遺症を抱えたまま、他人という存在を恐れるようになる。そしてゴールディーにもその傾向は大いにあるのだ。


ゴールディーがランプに美を見出したのは、彼女が培ってきた経験と美意識、そのものによるものだ。つまり彼女の人生の全てが、影響した結果としてランプを欲している。だが、オームスの無理解によって、彼女の信念は揺らいでいる。ここで誰もが思うことは、彼女の信念はとはそんなに弱いものなのか、ということだ。それはまるで、私たちのレベルと一緒じゃないか!それでいいの!?私たちはその意外な展開に不安になってくる。


さらに物語は進む。ゴールディーは、夢の中で妖精となったランプの作者に出会う。彼は「私は会ったこともないあなたのために作品を作ったのです。わかってくれてありがとう。」と言う。そのことで、ゴールディーは、そうだ、私が求めているものも、正にそれだったのだと、思い直す。他人の評価に左右されることでなく、私は会ったこともない誰かのために作品を作り、そのために生きていたのだと気づくのだ。この瞬間に彼女は絶望から生還し再生する。


もっと、考えてみよう。ゴールディーは、この出来事の前と後でどう変化したのだろう。


ゴールディーは、ひとかどのアーチストであった。彼女は人形の材料として採集した原木を使い、製材された材料を使わない。1つの人形の制作中はずっと一緒に生活をともにして、部品のひとつにもこだわって作り上げる。そして、それが商品として販売された後は、自分が作者であると名乗り出ることもない。つまり彼女は、自分なりのやり方を確立している「信念を持った」アーチスト=表現者である。そして彼女はある程度の、少なくとも彼女の両親以上の成功を収めている。


しかし、それだけではダメなのだ。そんな程度の信念を持ったアーチストなんかは、そこら中にいるのだ。それは小さな小さな成功でしかないし、単なる自分メガネの成功でしかないのだ。しかしゴールディーは、それに元々気づいている。なんとく気づいているのだ。だから作者ゴフスタインはこの本の半分以上を彼女の人となりを説明するために使っているのだ。彼女は気づいているんだと私達に説明したいのだ。そして、だからこそ、彼女は夢の中に妖精を呼び入れることが出来たのだ。


夢の妖精は、会ったこともない誰かのために人生=仕事を捧げている。それは個人の小さな成功を超えた、個人の小さな信念を超えたものだ。それは全世界に、全表現者に連鎖していくものだ。表現をするための小さなこだわりや技術論ではなく、それは「生き方」のようなものだ。


ゴールディーが到達した地点は、簡単ではない場所だ。あなたはあなたの人生=仕事を、会ったこともない、これからも会うこともないかもしれない誰かのために捧げられるかと問い詰めてくるのだ。


人に評価や理解を求めることが、挫折を約束された妄想であるなら、会ったこともない誰かに捧げることも妄想であるかもしれない。しかし、それは、死ぬまで挫折しない妄想なのだ。私たちは挫折しない妄想のことを「真実」と呼ぶ。人は、芸術家であれ、そうでないにしろ、生きることは「シミ」のような痕跡を残す、その意味においてあらゆる人は表現者である。あなたの生きた証としての「真実のシミ」は、会ったこともない誰かのために作られている。


あの人がわかってくれる、あの人のために頑張るのではない、現実的な小さな成功のために頑張るのでもない。まだ会ったこともない、一生会わないかもしれない、まだ見ぬ人のために捧げるのだ。


作者・ゴフスタインはゴールディーの物語を通して、自分自身がどうやって、ちょっとした成功で満足していた時期を超えることができたのかを説明し、そして本当に大事なものは何なのかについて、今、自分が知っていることを精一杯報告してくれようとする。彼女はいつだってそうだ。いつだって、知っている限りのこと、今、手が届いたばかりの限界のところを伝えようとしてくれる。だからゴフスタインの物語には、必死な切なさがあるのだ。そしてそれは柱についた傷のように、ずっとそこにある。


この経験を経たゴールディーは、注文をこなす多忙な人形作家という場所から、ひとつ違う場所に移行したに違いない。それは、他人には今までと変わらないゴールディーに見えるだろう。少し、前より明るいかもしれないが、それ以外は何も変わらないだろう。けれど、彼女は会ったこともない誰かのために、人形を作り、そのために生きているのだ。今まで、いつも自分を見つめてきたけれど、これからは、会ったこともない誰かを見つめていくのだ。心は、いつも、そこからの光で照らせているから、彼女は迷わないだろう。オームスのことも嫌いなることはないだろう。ただ、彼に幻想を被せるのではなく、彼と自分との違いを理解しようとして、その違いを問題とは考えず、彼の本当を見ようとし、彼の本当を愛そうとするかもしれない。そして彼女は、相変わらず自分が作者だとは名乗らないかもしれないが、時には「それはあなたのために私が作ったのよ」と笑って言うかもしれない。



トンカチ
M.S

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