ゴフスタインの『私と私の船長さん』(原題:Me and My Captain)には、大どんでん返しがある(ネタバレ注意!)。

最後の最後に、実にさらっと「彼にはあったことはないけれど」と言われてしまって、船長さんも、結婚生活も、赤ちゃんも、この物語の全てが「私」の空想だったとわかるのだ。

読者は雲の上から突然、外に放り出される。けれどすぐに「私にはあの人が見えるから幸せなのだ」という言葉がパラシュートのようにひらく。空から陸へ、無事に着陸するまでの短い間に、私たちは物語をふたたび体験して、そこに自分を重ね合わせる。この結末によって、読者はこの物語が何だったのかを、考えざるを得なくなるのだ。

私たちが追い求めているような本当の恋愛も、本当の美も、人間の世界には存在しないじゃないか!けれど本の中には、つまり想像するということの中には、それが存在する。だから私は悲しくもないし、絶望もしない。

想像するってことを、現実より弱いものだと思わないでくれ。やさしさは現実からは生まれない。それは想像することから生まれるのだ。私は、着地する間にそんなことを想う。あなたは何を想うだろう。

人形は不自由の象徴だけれども、彼らは木製なので自然とダイレクトに繋がっていて羨ましい。不自由なことで想像力が発達したのだ。

石膏の食べ物は、永遠の美だ。食べれないからこそ、美しい。あなたが変わらない美を求めるなら、石膏食にすればいい。その美しさは死を象徴する。

結婚という制度はあまりに不自由だけれど、こんなふうなら理想的だ。人と人には、もっとすっ飛ばしていい「時間」があるのに、人間社会はそれをよしとせず、そのことが本質を見失わせる。

高価なプレゼントも誓いの言葉もいらない。小さな食卓とたわいもない笑いがあればいい。

人と人には離れている時間が必要だ。そのことがやさしさを作り出す。祈りを忘れないこと。そして小さな日々を愛すること。

現実に混じるノイズに立ち向かうことは立派なことだ。しかし、私たちは立派になりたいわけじゃない。私たちはやさしくなりたいのだ。あったことにも、なかったことにも、私にも、あなたにも、あのひとにも、犬にも、赤ちゃんにも。

私は独占しない。いつも一緒にいてとは言わない。人はそれぞれの航海に一人で出ていかなければいけないから、待つことだって航海になるのだ。やさしさがあれば、不在さえも、輝いてくる。さびしさだって、輝いてくる。きっと裏切りだって輝くのだ。それらは海に降りそそぐ雨と同じだ。大きなものに、元あったところに、全部が帰っていく。キラキラ輝きながら。

『私と私の船長さん』は、その絵の完璧なタッチ、何通りにも読めるストーリーの深さ、そして根底に流れる人生に対するやさしさにおいて、M.B.ゴフスタインの全作品の中でも忘れられない一冊だ。

MS(トンカチ)

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