「とっとりのらくだ」

~砂で出来たリサ・ラーソン~

発売記念インタビュー「作った人に聞く!」

 

話し手:株式会社モルタルマジック代表取締役 池原正樹さん

聞き手:トンカチの茂木

 

はじめに

「とっとりのらくだ」は鳥取県が誇るベンチャー企業、モルタルマジックさんの砂を固める技術がなければ絶対にできなかったプロダクトです。こんな面白い技術で、こんな面白い商品を作ってくれる会社ってどんななの~?という好奇心からこのインタビューははじまりました。話をしていただいたのはモルタルマジック代表の池原さん、聞き手はトンカチの突撃新人代表の茂木です。読んでいただければ、なるほど、だからこ~いうのができるのね!って納得していただけるはず!どうぞお楽しみください。 

まず最初に、どういうご家庭でしたか。

どういうご家庭?(笑)3人兄弟ですね。上が姉、下が妹で、わたしは真ん中です。姉が54、私が52、妹が48歳。そして父と母。母が十何年前に他界したんですけれども、父は今78歳です。というような家族構成ですけれども。私の家系がほぼ全員、商売、会社をやっておりまして。私の父が建設会社の社長で、祖父も会社を経営しておりました。世代ごとにそれぞれが別の会社を立ち上げてしまうというね、ちょっと不思議な一族の中で育ったので、必然的に何かをするんだろうな、という思いながら育った気がします。

なるほど。では家業を継ぐのではなく、ご自身で何かをするという思いで?

そうですね。そういう思いは常にありましたね。

話が飛んでしまうんですけど、中学生の時にバレーボールに目覚めて、県で一位になるような強豪校にたまたま入ってしまって、その流れでバレーを続けてしまった結果、高校、大学、そして実業団とバレーを続けてしまった、と。そのあと結構大きな転機があるんですけど。

体育大学に通われていたということですが、ご両親は商売をやってほしいとか、そういった教育方針ではなかったのですか?

ではなかったんです。高校の時に私の監督、恩師が体育教員で、その人に憧れがありまして。それで体育教員になりたくて。それで体育大学に進学したわけなんです。

 なるほど。小さい頃から体を動かすことが好きだったのですか?

好きでしたね。勉強よりも、そういうことの方が好きでした。 

 幼い頃のことでよく覚えていらっしゃることはありますか?

幼い頃、、そうですね〜。本当に幼い頃には、恥ずかしがり屋だったような気がしますけども。それもスポーツすることによって一気にはじけたような。おとなしめの子だったことは聞いていましたね。

 お姉様と妹様との関係はどのような関係でしたか?

仲良いですよ。今でも仲良くしています。どういう関係って、答えが難しいですけど(笑)いまだに、電話もよくしますし、ご飯も食べたりしますし。 

 他のインタビューを拝見した際に、幼い頃から家業を継ぐ意識があったとおっしゃっていたと思うのですが、そういう気持ちはいつ頃から芽生えたのでしょうか。

どのくらいにしておきましょうか。(笑)物心ついたときでしょうね。小学校高学年の頃からかな。

 ちょっと時代が進んでしまうのですけれども、体育大学を卒業されて、昼間現場でお仕事を覚えながら、夜間に学校に通われていたそうですが、その期間ってどのくらいだったんですか?

国家資格をとっていましたので、建築士とか施工管理士とか。土木とか建築をするのに必要最低限の資格を一気にとろうとしていたので、3年くらいですかね。ぶっ通しでやっていました。

 その頃、結構大変だったのでは?

その頃はね、かなり追い込まれていましたけど(笑)まあでも、楽しみながら。その学校でも仲間ができたので。なんかね、必ず人には恵まれているような気がします。出会いとかには。そういうものを全てひっくるめて楽しい思い出にはなっています。 

 実業団でバレーボールをやられていた時から、建築業にいこうと思ったきっかけはなんだったんですか?

阪神淡路大震災ですね。当時神戸製鋼にいましたので。で、そこにいたのが23歳の時だったんです。大学卒業して一年ちょっとくらいの時に、阪神大震災がありまして。で、バレー自体が廃部になったんですね。そのあと本社に残ることもできたんですけれども、バレーボールをできなくなってしまうなら、と思って、方向転換しました。

バレーボールには一度区切りをつけて、次のステージに進むことになりました。そうしたらたまたま父親が商売をしていたので、後を継ぎに帰ってこいと。そういう経緯で帰ってきました。

 

 その、中学校の頃から続けていたバレーはそこでスパッと辞めらるものなんでしょうか?

鳥取に帰ってきてもクラブチームには所属していて、そこで県一位にはなったりしていたので、まあまあ、それでいいのかなと。27歳でバレーボールは辞めました。

 

 学校に通っていて、すごく大変だったと思うんですけど…

大変って言ったほうがいいですか?(笑)

 

 大変じゃなかったんですか!?震災でバレーを辞めて、会社を継ぐことになったという理由だけで3年間も現場と資格の勉強の両立ができるものなのかなと。

当時不景気ということもあって、非常に厳しい状況でしたから、バブルも崩壊して、自民党から民主党になって、公共事業が激減するとか、節目の時だったんですよね。

 

 うんうん

とにかくもう、やるしかない!ってところまで追い込まれていたので。ただ逆に、そこまでいってしまうともうあとはV字であがってくるだけですから。何もかも楽しく感じましたよ。どん底をみるとね。やっぱりね。

 もう登るだけですものね。

全てが楽しく見えます! 

 その後、モルタルに取り憑かれて、3年間修行をされていた間、社員の皆様は何をされていたのでしょうか?

それはですね、私がもう一つ事業をしている、吸排設備、水道工事の部門がありましたので。そこは安定的に仕事があったので、私がいなくても会社がまわるようになっていたんです。私が自由にやっているようなイメージがあると思うんですけれども、私は3年間修行に行っている間も、社員はちゃんと仕事がありました。

 その期間、全く連絡をとらなかったというのは?

そうですね。その部門の部長とのやり取りはしていたんですけど、スタッフには僕が今何をしているか言わないでくれと言っていました。 

 モルタルをみてすぐに職人さんのところに飛び込んでいけたのはなぜなのでしょうか。

そうですね。仕事自体借金まみれだったということもあって、何かしないとだめだと思って。ちょっと何か光が見えたというか。私が興味をもっただけなんですけど。何かやらなくてはと追い込まれながらの、これだ!っていうのがモルタル造形だったので。これしかない!と脳が判断してしまったんですよね。だから、即行動にうつれたんですけど。でも、モルタル造形に出会う前に色々なものに出会っているんですよね。事業にしたらいいかなとか。でも、それらのものに対しては自分の中での「やりたい」って気持ちがなかったんです。動くことができなかったんです。でも、モルタルに関しては何故か私はやりたいと思ったんです。あとはもうやるしかない。そういう信号が送られてきたんですよね、単純なので。

 運命のような出会いですね。

そうですね。結果的に、そうなった。今がよくなっているから言えることですよね。今うまくいってなかったら、モルタルの話もいい話にはならなかったんですよね。

そうですよね。過ち、みたいな感じになっちゃいますね。

そうそうそう。後悔しかない、って話になっちゃうんですね。

モルタル業の修行時代に出会った人の話を聞かせてください。

まず一番にモルタル造形が広まっていったのが、ディズニーランドですね。岩とかそういうものは、ほぼ全てモルタル造形でできています。もしくは、ラスベガスとかカジノとかの華やかな建物もだいたいモルタル造形でできています。それで、、あれ、なんの話でしたっけ?

(笑)そういう、モルタル業をやっている界隈はどんな感じだったのかな、と。

職人気質の人ばっかりです。華やかではないですが仕上がったものは面白いんです。上下関係もあるし。先輩がくるまえにモルタルを練っておかないとだめとか。もちろん片付けとかも全て下っ端がやりますし。しばかれたりもしますし。モルタルを投げられることもありました。だからやっぱり修行みたいな感じでした。それもやっぱり、スポーツをやっていて、そういうことはよくあったので、なんとも思わなかったですけどね。

すごい。

修行の身ですから。

面白い人はいましたか?

面白い人はいますよ。酒に溺れてね、ギャンブルに溺れて、給料日に全部使っちゃうとかね。

技術だけはしっかり学んできたと。

そうですね。だから、それで勝てると思ったんです。モルタル業で事業を!と考えている人は当時私の周りにはいなかったので。

その後、モルタルの技術に入られたと思うんですけど、砂についてというのは1から学んだのですか?

それが、1からではなかったんですよ。モルタル造形に使うセメントという材料が、海外から輸入しているのですごく高いんですよ。もしかしたら自分だったらメイドインジャパンで作れちゃうんじゃないかと思っちゃって。そんな時に、モルタルセメントっていうのが、セメントと水と砂を使うんですよ。ということは砂を研究する意味はあると思って、砂の研究をしていたんですよ。その時に、鳥取市の観光協会の方から、「池原くん、何やら砂を調べているらしいね」と言われて。いろんな機関に行って、砂のことを教えてくださいとお願いしていたら、そのことがまわりに知られるようになって。で、観光協会の方に砂のお土産がないという話を聞いたときに、ビビッときて。で、そこから砂の研究にどっぷりはまったんですね。そういう経緯です。

砂の研究はどのくらい?

2010年に鳥取砂丘モアイという砂で作った商品をスタートさせているんです。それができるまで、8年かかっているんです。モルタル造形を修行しているときから数えて。あわせるとそのくらいですね。その期間をかけて接着剤が完成した、というわけです。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)との共同研究もされていたとのことですが、どのようなことを研究されていたんですか?

月と火星に建物を建てるという研究をしていました。地球上から火星に1kgのものをもっていくのに、約1億円の運搬費がかかるんです。であれば、火星にある材料を使って、なるべく地球からものをもっていかないで建物を建てる方法を研究していたんです。レボリス(月や火星の表面にある砂)を使って建物をたてることができたら、すごいんじゃないでしょうか、という研究に応募したんです。私の技術であればそれができるんじゃないかという大きな勘違いがありまして。(笑)

研究は、応募して選ばれて、、という流れなんですね。

そうですそうです。もちろん、何社も落とされるんです。なかなか通らないところを通ってしまったという奇跡がおきて。応募をしたのが平成28年ですね。

そこで、その提案ができるのかどうかという研究をされていた、と。

そうですね。1年間研究しました。

今は沖縄に住んでいるそうですが。

そうです。沖縄の事業をスタートしているんですよ。軽石をつかって。我々が一番手で沖縄で軽石を活用した事業を始めたんです。

そうなんですね。

今は、水族館さんと一緒に珊瑚の研究もしています。先月、やっと事務所を那覇に構えました。そこで色々なことをやっています。沖縄は行ったことありますか?

それが、行ったことがないんですよ。

そうなんですね。是非、私が案内しますよ。日本一の水族館があるし、そこに生きた珊瑚が定着しているんですけど、珊瑚って伸びていくんですよ。上に伸びてくんですけど、それを枝打ちして、今までは捨てていたんですけど、SDGsということで私たちの技術で固めて活用しようかと。珊瑚の活用は水族館が始まって以来、初めてのことらしく、初めてのことと言われると俄然やってやろう!という気持ちになるんですね。

そうなんですね。お忙しいところありがとうございます。

いえいえ全然。忙しくないです。

(笑)次に固めたい!と思っている素材とかってあるのでしょうか。

今は珊瑚に集中していますけれど、気になるのはゼオライトという土ですね。ゼオライトの時代がくると思っていまして。

ゼオライトの時代が…!

排気ガスを吸着するんですね、もしくはアンモニアとか。それをつかって次の商品開発を研究しています。一番は珊瑚の活用と、次がゼオライトというような感じに思っています。

 

ところで、リサ・ラーソンってご存じでしたか?

実はお名前は知らなかったんですけど、作品をみたときに「ああ〜!」と思いました。だから本当に嬉しかったですよ、お話いただいたとき。

本当ですか?

本当に。で、原型とかも私が作らせていただいていますけれども。

えっ!(池原社長が作っていたことに衝撃を受ける!)

合間合間に作らせていただいていて、遅くなってしまってすみません。非常に、光栄に思っております。こんど珊瑚でも何か一緒にできたら。

 

いいですね!嬉しいです。リサの海にまつわる作品を珊瑚でつくったら可愛いですね。どうぞ、これからもよろしくお願いします!

 

インタビューを終えて

やっぱり面白いものは面白い人から生まれる。ハッピーなものはハッピーな考え方から生まれる。わかっていることなんですけど、それを再度痛感したお話でした。私たちのコラボレーションもずっとそんな取り組みであったらいいなあ。今後のモルタルマジックさんとトンカチとのコラボレーションに、どうぞご期待ください!



とっとりのらくだ

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Lisa larson