『おさかなごはん』について、そしてAI。

私がおばあちゃんになったら、どんなおばあちゃんになっているのだろう。

何に興味をもち、何をおいしいと感じ、何がキレイに見えるのだろう。そして絶好調とは言えない体と付き合いながら、毎日をどう過ごしているのだろう。

今のように、人の行動を気にしたり、自分が他人からどう見えるかとか、損だとか得だとかお金のこととか、そんなことばかり気にしているはずはないよね。

そんなんだったら嫌だもの。

M. B. ゴフスタインの1976年作『おさかなごはん』(原題:Fish for Supper)は、一人のおばあちゃんが、朝起きて、釣りにいって、食べて寝る、その繰り返しの日々を描いている。大きな事件は何も起こらない。けれど、退屈しているそぶりもなく、一人暮らしの老人という「孤独の影」もない。おばあちゃんの頭の上の太陽は、暗い影をつくらない。

ゴフスタインの本は読むたびに感じ方が変わる。5年とか10年のスパンで、その人にとって全く違う本になる。例えば、学生の頃に読んだ『ブルッキーと彼女の子羊』は私にとって明るいファンタジーだった。でも10年経つと、人と人とのコミュニケーションの難しさと、愛の難しさについてのドキュメンタリーになった。

『おさかなごはん』についても同じだ。原書が出たのが1976年、最初に日本語版がでたのは1980年。私がそれを読んだのはずっと後だが、はっきり覚えていない。その頃の私の中では、より複雑な心理描写の『人形づくりのゴールディー』などの影に隠れていて『おさかなごはん』の印象はおばあちゃんの絵のかわいさに尽きていた。それからずいぶんと時間が経って、私がずいぶんと大きな子供になったせいで、この本の印象はまるで変わってしまった。今では、このおばあちゃんの生き方こそが、目指すべき理想の生き方に思えてきた。そしてもっと言えば、おばあちゃんは人類の理想の生き方かも知れない、とさえ思うようになった。

今回、『おさかなごはん』を復刻するにあたって、何度もこの本を読んで、新たに気になってきたことがある。おばあちゃんは釣った魚を料理して食べる、ということ。つまり、当然それは殺して食べるということであり、おばあちゃんの毎日には誰かの「死」と、そのお陰で続いていける私の「生」という仕組みが組み込まれているということだ。おばあちゃんは毎日、死を体験しながら今日を生きている。もしかして本当の生活にはそういうことが必要なのか?だとしたら、私のは違っているぞ。ねぇ、おばあちゃん、教えてちょうだい!

スーパーで魚の切り身を買ってきて料理しても、大戸屋でお魚ごはんを食べても、生と死に感謝することは可能だ。けれど、それは指先に死の感触が残っていることとは決定的に違っている。作品を作るという行為は常に誰かへの鎮魂であり、自分が生きている、生かされているということへの感謝の念である。いや、「感謝の念」というと嘘になる。感謝というよりは、何かわからない何かに守られている、許されているという得体のしれないサポート感のようなものだ。

死も生も含めて、私たちを含めた世界は、より大きなところから誰かに見守られている。それは森や海よりも大きく、空よりも高いところにある。そいつは『おさかなごはん』の中では、黄色いボート小屋として登場する。でも、私たちには黄色いボート小屋は見えない。

もし、あなたが赤ちゃんならそれが見えるはずだ。赤ちゃんは眼の前の親に常に見守られているが、その背後からもっと大きな目に見守られている。赤ちゃんにはその声も聞こえているし、その姿も見えている。でも、やがてそれは失われる。ほとんどは言葉の獲得と引き換えに消えてしまうのだ。

本当のおばあちゃんという存在は、感覚としての赤ちゃんを取り戻した超人間なのだ。大きなものに見守られているとはっきり感じながら、毎日を自然な繰り返しの中で生きていける。その生活のなかには誰かの死と自分の生と、次なる誰かの誕生が組み込まれている。もう、他人がどう自分のことを見ているとか、有名になりたいとか、傑作を作りたいとか、もっと美味しいレストランに行きたいとか、そんなことはずっと後方に遠のいている。向こう岸に停めた自転車みたい小さくなって、最後は飛行機から見たお米くらいに小さくなっていく。

ゴフスタインは、『おさかなごはん』のおばあちゃんのように生きていきたかったのだ。生涯、それに憧れ続けていた。彼女は、動物と心が通じるブルッキーにも、自意識と夢の中で悩むゴールディーにも、謎めいた悲しさと優しさを秘めたお隣さんにもなれたけれど、おばあちゃんという存在にはどうしてもたどり着けなかったのだ。けれど最晩年には、きっとその境地にたどり着いていたに違いない。表現とは、自然を翻訳する力だ。その力は言葉の獲得とともに得られるもので、人はそれと引き換えに赤ちゃんの超能力を失う。しかし、おばあちゃんになって、言葉と表現をいったん横に置けるようになったとき、その力を取り戻せるのかもしれない。それは人生に対する最後のご褒美なのかもしれない。今、そんな大雑把な感想を抱いている。

さて、数年後にまた『おさかなごはん』に出会うとき、この物語はどんな顔で私の前に現れるのだろうか。

MS(トンカチ)

 

 

(付録)

AIに、この文章を小学生に向けて書き直してくださいとお願いしたら、ざくっと削って下記のようにしてくれた。なんだ、そういうことだったのか!

『おさかなごはん』ってどんなお話?

 みんな、おばあちゃんになったらどんな生活をするんだろうって考えたことある?おばあちゃんはどんなことを楽しんで、毎日を過ごしているのかな?

 『おさかなごはん』っていう絵本は、一人のおばあちゃんが主人公なんだ。このおばあちゃんは、朝起きて、釣りに行って、自分でお魚を捕まえて、それをおいしく食べて、また寝るっていうシンプルな毎日を送っているんだよ。なんだかゆっくりした毎日だよね。でも、おばあちゃんはとっても楽しそうなんだ。

 この本はね、読む人の年齢や経験によって、感じ方が変わるんだ。例えば、子どものときに読んだら、おばあちゃんの釣りが楽しそうに見えるかもしれない。でも、大人になってから読むと、おばあちゃんがどうして毎日釣りに行くのか、少し違った見方ができるんだよ。

 おばあちゃんは毎日、自分で釣った魚を料理して食べるんだけど、それって実は、魚の命をいただいているんだよね。私たちがスーパーでお魚を買うときとはちょっと違うんだ。おばあちゃんは、その魚を捕まえることで、命の大切さを感じているんだと思う。

 みんなは、おばあちゃんみたいに毎日をシンプルに楽しんでいるかな?『おさかなごはん』を読むと、自然の中で生きることや、自分で何かをすることの楽しさが伝わってくるよ。おばあちゃんのように、大きなことはしなくても、毎日を大切に過ごすことができたら素敵だよね。

 この本を読んで、みんなはどんなおばあちゃん(おじいちゃん)になりたいと思うかな?また大きくなってからこの本を読むと、今とは違う気持ちになるかもしれないよ。そのとき、またこのお話がどんなふうに感じるか楽しみだね。

AIのMS(トンカチ)

M.b.goffsteinTonkachi books